友人の実家は、お父上が亡くなって医院を廃業し、ご姉妹とも連絡がとれないまま、お墓がどこにあるのか見当もつかいないままになってしまっていました。
ところが、ネットの力の威力で、菩提寺が分かりました。ご住職に連絡したところ、偶然にも彼女のすぐ下の妹さんの同級生だとのこと。
横手までは、同期会に出席していた湯沢の友人が車で送ってくれたので、2時のご住職との約束の時間までは、随分ゆとりがあります。横手の見所は? と車で送ってくれた友人に尋ねたところ、「増田の内蔵は、今日は蔵の日≠ナ、多くの蔵を公開しているはず」とのこと。
横手駅でレンタカーを借り、友人と二人で増田に向かいました。
秋田でも豪雪地帯の平鹿地方ならでは、大切なものを貯蔵する蔵を雪から護るため、蔵の上に鞘となる上屋で覆っているのが増田の内蔵の所以です。写真のように、上屋そのものが本建築なので、外観からはこの中に蔵があるとは思えないつくりになっています。
家の中に入って眼前に開ける蔵の扉です。
黒漆喰の美しさや、細工の素晴らしさに目を奪われます。
元々は、財貨や文書類、書画骨董、冠婚葬祭の衣装や什器類などの貴重品を保存するための文庫蔵として建てられたものが多いとのことでした。見事な刺繍の施された振り袖と貴重品であったろうシロクマの毛皮が残されています。
こちらは婚礼用の打ち掛けや什器類、そして七五三の衣装が展示されていました。
医院であったお宅の3階建ての上屋です。塀の前で記念撮影。
明治時代になると、だんだん蔵を生活空間として利用する座敷蔵が増えてきたとのこと。
上のお宅の座敷蔵です。見事な空間です。
こちらの座敷蔵には、子供部屋として利用した一室があったようで、なつかしい木馬などがありました。
江戸時代は雄物川支流の成瀬川と皆瀬川の合流点に立地し、寛永20(1643)年の開始と伝えられる増田の朝市は、現在に至るまで連綿と続いています。葉タバコや生糸は一時期秋田県内最大の産地となって、増田は物資の集散地としてたいへん賑わったとのこと。
その後、明治時代になると、近くの吉乃鉱山の発掘も盛んになり、承認が共同で増田銀行(現在の北都銀行の前身)を創設させたり、増田水力電気会社(発電)や増田製陶会社(陶器)、長坂商店(味噌醤油)などの会社も設立され、商業活動は加速度的に活発になったとのことです。
その商業活動の舞台となった七日町商店街通り(中七日通り)を中心に建てられている蔵を中心に、現在、この界隈は国によって、伝統的建造物群に指定されています。
しかし、どこかなつかしい堀。
現在も住み続けられている蔵の町は、人間味のある温かな蔵の町でした。