岩手県の中学2年生が、いじめに苦しんで自殺の道を選んでしまったという事件について、さまざまなメディアがさまざまな報道をしています。
このような重大な事件で、しかも人の命に関する問題で、さらに、詳しい事情を知らない私が何か発言することは、慎みたいと思っています。
しかし、今回は、報道の中のさまざまなコメントに違和感を覚えたので、書き込むことにしました。
いろんな方のコメントの中で、教育評論家の尾木直樹さんが、私の思いに近いと感じました。生活記録のやりとりに触れ、「この担任のコメントは、教師という立場からの上から目線」というような意味をおっしゃっていたことです。
今、担任の先生が自責の念にかられているだろうことを思うと、追い打ちをかけるようなことをしてはいけないと思いつつ、個人の問題だけでなく、今の学校現場のひずみがこの事件の奥底に潜んでいるような気がしてならないのです。
学校というのは、一方的に教師から教わる場、だけでなく、子ども同士が育ち合う場でもあるはずです。いじめの問題が起こったとき、なぜそんなことになるのか、徹底的にいじめる側の子どもたちの思いや胸の内を聞く姿勢はあったのでしょうか。いじめている子たちに対して、「してはいけないこと」と反省を求める、いわゆる指導だけが行われていることがままあるのではないでしょうか。その場合、いじめは止まないばかりか、先生や大人の目を盗んで陰湿になったり、学校の場を離れて行われたりするのではないでしょうか。
先生という立場の上から目線で指導するのではなく、子どもの隣る人≠ニして思いや心の叫びを聞き取る姿勢をもっていれば−、と思わずにはいられません。
今回の事件で自らの命を断った生徒の傷ましさはいうまでもありませんが、この学校の対応で多くの子どもたちが、自分たちが友人の命を奪ってしまったという取り返しのつかない悔いを抱えることになってしまったこともまた、あまりにも無残です。
学校という場が、本当に子どもたちが健やかに育っていく場であるために何が求められているのか、真剣に考える必要がありはしないでしょうか。