8月15日の終戦記念日、わが家の昼食は「すいとん」です。あの大戦で尊い命を奪われた方々の冥福を祈っていただきます。
そのころまだ1歳だった末っ子の夫を含む、3人の幼い子どもを連れて、旧満州から引き揚げてきた夫の母は、「戦争中のすいとんは、こんな贅沢なものではなかった」とよく言っていました。その義母は、夫が今でいう離乳食の時期に当たっていたのに、食べるものに不自由してピーマンの蔓が手に入ればいいほうだった、と言い、そのせいで常に下痢気味だった夫のおむつを洗うのに困った、という話しを断片的にしてくれただけでした。
今にして思うと、もっと話しを聞くべきだったと思います。
そうしてひどい栄養不良のせいか、結核菌が体内に棲みついてしまった夫は、その後、結核性の関節炎で何度も股関節の手術をし、高校のときには結核も患いました。
あの大戦で尊い命を奪われた方々とその身内の方々のことを思うと、この程度で済んだことは感謝しなければならないのでしょうが、戦後70年といっても、まだまだ戦争の影響は案外身近なところに残っているのです。
そして、国会で「集団的自衛権」を容認する「安保法案」なるものが議論されている今、私は50年前、私が高校を卒業して大学に入る頃の空気に似ている、と感じています。
大学に入ってからの数年は、バリケードの中だったといっても過言ではありません。
最初に、「自衛隊適格者名簿」なるものの存在が明らかになり、「徴兵制」につながるのでは、と平和団体や学生が声をあげました。この問題はうやむやなまま、現在でもこの名簿の存在はときどき問題となります。ごく最近では、自衛隊の入隊案内が18歳の若者に送られてきた自治体があったようです。ずっと社会の底流にひそんでいるのでしょうか。
また、昔の紀元節の日である2月11日を「建国記念日」とする祝日法の改正でも反対の声が上がりました。
そして、私たちの大学で一番大きな問題となったのは、「目的化大学構想」というものでした。産学協同が提唱され、それに対して学問の独立性を主張する人々の反対の声が高まったのです。
私の入学した学芸学部は、教員を養成するための教育学部に改編するとされ、教員になるために必要な教科だけを履修すればよいとされたのです。
「教師となるためには幅広い人間教育が必要」とする学生側は全国的に連帯して反対運動を展開し、東の拠点が私の母校、そして西の拠点は大阪学芸大学となったのです。
最近、「文化系大学不要論」が取り沙汰されていて、50年前の状況と重なって見えます。
全国的には、学生運動=全学連運動と見られ、ベトナム戦争反対や国際反戦ディ、そして成田空港建設をめぐる成田闘争などが大きなうねりとなって広がったようですが、その陰にはこのような学生運動もありました。
今、「安保法案」に反対する若者たちの姿に、50年前の自分が思い出されます。あのとき、ほんの少し、権力が揺らいだように見えました。「でも何も変わらなかったではないか」と言われるかも知れません。
でもそうして自分が動いたことはその後の自分の生き方の底に潜んでいて、納得のできないものにはNOと声をあげなければ、と思うのです。
今日の朝刊で瀬戸内寂聴さんが語っていらしたように、「立ちあがったという事実はとても強い」ということを信じたいと思います。50年前、これからの社会は良くなっていくんだろうと信じていたのに、今振り返ってみると、本当に良くなっているのか、と疑問を感じるとしたら、あの若いころに求めていたものを今一度見つめ直して、より良い社会のためにまだまだ動いていかなけれな、と思った終戦記念日です。