調べ過ぎるから、質問時間が足りなくなるんじゃないか、というご批判もありますが、質問する以上は、その質問する事項に対して、できるだけ認識を深くしておきたい、という思いがあり、それが徐々に自分の「こやし」になっている、という自負もあります。
さて、ここ数日、メール上で「自衛隊による国民の監視活動」についてのやりとりが続いています。
この「監視活動」表向きは「自衛隊のイラク派遣に反対しているグループや個人」の監視とされていて、久間防衛庁長官も、委員会質疑の答弁の中で「自衛隊に対する国民の動きを自衛隊が把握するのは問題ない」というような発言に終始していました。
しかし、「監視活動」の報告書をみると、必ずしも「自衛隊のイラク派遣に反対」する行動だけでなく、「増税反対」や「小林多喜二を偲ぶ催し」など、「自衛隊のイラク派遣」とは何の関係もない運動・活動まで対象になっていたことが分かります。
これって、戦前の特効警察? と重ね合わせてしまう人も多いと思います。
そして、辺野古の普天間基地反対運動に投入された会場自衛隊の母艦「ぶんご」。
これについても、ついに国会の質疑の中で「自衛隊の本来任務ではなく、問題」とする野党の追及に明確な答弁はありませんでした。
何しろ、「札幌の雪祭の応援と同じようなもの」というすっとぼけた答弁でかわそうとして防衛庁長官、“協力すること”と“排除すること”が全く同じ任務というのは、あまりにも強引過ぎます。
戦争というのはいつか突然起こるのではない、徐々に準備が進められ、いつか国民が気がついたとき、反対できない状況が作り出され、戦争に突き進んでいくのだ、というのが、先の大戦を経験した方の多くの反省の声です。
今がすでに戦前、という状況がつくられているのではないか、厳しいチェックが、求められています。
そんなことを考えていたところに、朝日の朝刊「異見新言」のコーナーで、津田塾大学の萱野稔人准教授の、「国家と国民は一体なのか」という論を読みました。
国民と国家は一体、日本国民を国家の運営に直接かかわるものや一定の権限を与えられるものと、その他の二つの層に分けるのはやや階級史観的」とする安倍首相の国家観はあまりにもナイーブ、とする菅野氏の論は、とてもわかりやすいと思いました。
国民を管理する側であり、その権力をもっている国家と国民が一体のものであるわけがありません。
そして「憲法」というのは、国家権力が暴走して、国民の基本的権利をうばうことがないよう規定するものである、という認識がないからこそ、「国民の義務をもっと憲法で位置づけるべき」などという本末転倒の改憲論議が、国会という場で行われたりするのでしょう。
年金問題に対するあまりにも低次元の議論を見ても、やっぱり今の国会のレベルの低さが気になります。こんな人たちに、私たちの命、暮らしを守る仕組みを任せていていいのだろうか。
夏、良識の府、と言われる参議院議員の選挙があります。私たちにできることは、参議院を「良識の府」として甦らせることのできる議員を、一人でも多く送ることではないかと、痛切に思います。



