2015年09月13日

「いのち」について向き合った時間ー市民福祉講座「いのちの選別ー出生前診断」

 昨日は、わらじの会主催の「いのちの選別−出生前診断」というテーマの市民福祉講座に参加しました。
 問題提起としてお話くださったのは、「NPO法人自立生活センターくれぱす」の見形信子さんです。見形さんは「神経筋疾患ネットワーク」として、出生前診断に異議申し立てをしています。

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 2013年から行われるようになった「出生前診断」は、妊娠中のお母さんの血液検査を行って、胎児の障害につながる率の高い染色体異常を調べる診断です。この検査で陽性反応が出た場合は、さらに羊水検査を行います。その結果障害があると判定された人の8割ほどが、妊娠中絶しているという調査結果もあります。

 運動神経や運動神経と筋肉のつなぎ目、あるいは筋肉細胞のいずれかの障害によって起こる神経筋疾患によって筋力の低下や筋肉がやせるなど症状が起こり、四肢が動かせなくなった見形さんは、小学校の4年生までは週2回、学校の先生が自宅に出向く訪問教育を受けていたとのことで、勉強時間はわずかに週4時間だけだったとのこと。小学校5年生で養護学校に通うようになって初めて、友だちができた、とのことです。
 その後、成長して自宅介護がむずかしくなったため、高校時代は国立療養所に入院しながら、併設されている養護学校で学びました。しかし、卒業に当たっての進路指導などなく、引き続き有効な薬もないままの入院生活を送ったとのこと。1980年代です。

 そして28歳で、当時盛んになった障害者の自立生活運動の仲間と知り合い、自分自身も自立生活を選択して今に至っています。

 障害ゆえに、障害を持たない(もしくは軽い)同年代の人たちが過ごしている環境から切り分けられてきた見形さんだからこそ、今、命の続く限り生き続けたいし、その権利を認めて、と訴えます。同じように、障害があって生まれてくる命は認められないのか、と突きつけます。

 1970年の心身障害者対策基本法の中で、先天異常を防ぐことが盛り込まれて以来、「不幸な子どもを産まない」という流れは連綿と続いているように思います。
 そして障害の有無で命を選別することは、次第次第に人間の存在そのものを選別することに繋がっていっているように思います。その人そのものを受け止めるのではなく、社会の用に立つか立たないか、使える存在かどうか、といった価値基準で人を見る傾向がありはしないでしょうか。
 
 しかし、少なくとも私の育った時代は、「子は神様からの授かりもの」、「子は神様からの預かりもの」と言われていたように思います。人間の手で作り出すことのできない命だからこそ、受取り、育てていくのが人間なのではないか、と思います。

 こんな出生前診断などを行っている一方で、健康や命に関わる食品添加物や農薬、あるいは薬害を引き起こす医薬品の問題、そして3,11以降の放射能汚染の問題、それについて真剣に取り組んでいる政策を見いだすことは困難です。

 長男を妊娠中のことでした。豆腐など添加物されているAF2が染色体異常を起こすことが分かりました。それを突き止めた、人類遺伝学の故外村彰先生を取材させていただく機会を得ました。そのとき外村先生のおっしゃっていたことが、その後ずっと私の指針になっています。
 「染色体に修復できない傷がついてしまったら、それは確実に次の世代に引き継がれる」
 「日本が体内にこれだけたくさんの科学物質を、飲食物として取り込む時代は、戦後のつい最近のこと。これは壮大な人体実験ともいうべきで、これからの世代にどんな障害などが起こるか予想もつかないのではないか」

 人間が自分の手で作り出したもので生命や健康を脅かすことは、作り出すことをやめること、あるいは食品や薬として体内に取り込まないことでやめることができるはずです。しかし、経済性優先の流れの中で、立ち止まって考えることなしにきてしまったことが、今に至っているのでは、そんなことを考えながら、命について向き合った時間でした。
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2015年09月11日

備えあれば憂いなしというけれどー

 一昨日からの大雨、昨日の未明からは屋根に叩きつける雨音で目が覚めて、眠れぬままぼんやりとテレビをつけて情報を見ていました。
 「大変なことになりそう!」

 50年に一度ともいわれる豪雨は、それこそ大変な被害を巻き起こしています。被害に遭われた方々には心からお悔やみ申し上げるとともに、今なお北上して大雨を降らし続けている「線状降水帯」による新たな被害が起こらないよう、祈るばかりです。

 昨日は、朝、団地に住むYさんの介助に行くことになっていました。一昨日の夜、いつも通る道の状況はどうか、見てみました。もう安之堀川はあふれんばかりになっていて、その上の夜半からの雨では、冠水しているだろうと思ったところ、未明にあふれたようです。

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 これでは自転車で通るのはむずかしいので、団地の中を通って行くことにしました。
 ところが−。

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 保育所と近隣公園の間の道路は、このように完全に川状態です。タイヤが側溝などにとられるのが怖いので、自転車を降りて押して歩きました。そうだった、長男がまだ幼かったとき、保育所帰りに長男を乗せてこうして押して歩いたことがあったっけ、と思いだしながらですから、40年ぶりのことでしょうか。
 団地のあちこちも、川になった道路や沼? と思う光景が広がっています。

 Yさん宅にたどりついたものの、これではYさんが車椅子移動で、今日の活動場所まで行くことはできません。ところが、天候の悪いときには車での送迎を頼むくらしセンターは、通所者も職員もセンターまで来れないため休みとなったとのこと。
 Yさんの日中介助を確保しなければ−。幸いなことに泊まりに入っていたのが元法人職員のNさんだったので、ふたりで片っ端から歩いてこれる範囲の介助スタッフに連絡をとりました。昼間で私が延長し、午後から介助に入ってくれる人を確保して、一件落着となりました。
 24時間介助が必要なYさんは、年に数回、介助に関わっている人が集まって交流会を行い、情報交換しています。こういういざというときには、やっぱり顔の見える関係ができていることが頼みになると実感しました。

 帰りは、結局、安之堀川沿いを通っても状況は変わらないと思って向かったところ−。

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 安之堀が合流する新方川は、もう堤防の縁すれすれ、というほどの水位です。これ以上、上流からの水かさが増さないといいのですが。

 というわけで、被害はなかったわが家ですが、テレビや新聞で、せんげん台駅前の冠水と電車の運行中止が報道されたせいか、「大丈夫なの?」安否確認の電話やメールが続きました。せんげん台付近の水は昨日の夕方には引いたようですが、新方川の下流では川があふれて浸水被害が起こっているようです。
 今朝も時折ヘリコプターが飛んできて、上空から状況確認をしているのでしょうか。

 水浸しになった街を歩いていると、ちょっとした高低差が水の流れをつくっていることが分かります。特に、マンションなどの玄関前のスロープや階段から途切れることなく流れ落ち、側溝で受け止めきれず道路に落ち、その道路から広い道路に流れこんでその側溝も受け止めきれない、という光景をあちこちで見ました。
 防災というけれど、こうした都市部の内水の現状を加味した、まちづくりも考えていかなければ、と思いました。


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2015年08月31日

一人ひとりのつながりと広がりで成功した「疎開した40万冊の図書」上映会

 29日の土曜日は、戦時下、日比谷図書館の貴重な蔵書を空襲の火の手から守ろうと、疎開させた人たちがいた、という事実を追ったドキュメンタリー、「疎開した40万冊の図書」の上映会が行われました。

 「春日部の平和を語る会」のメンバーの一人が、この上映会を是非開きたいと提案したところ、市民活動センターで活動している団体のメンバーを中心に賛同し、実行委員会をつくって、この3か月準備を進めてきたものです。

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 当初はこの地味な映画、欲張らずにそこそこの会場で、身の丈にあった上映会にしようという意見もあったのですが、実行委員会のメンバーが10名近くいるのに、小さな会場ではチケットを売るのも本気度が薄れる、ということで、なんと、定員350人の中央公民館の講堂で行うこととなりました。

 ガラガラだったらどうしよう、そんな不安もありましたが、当日、なんと250名近くの方の参加がありました。

 広報に力を貸して下さった多くの皆さん、報道してくださったマスコミの皆さん、そして暑い中、一枚一枚チケットを売ってくれた多くの仲間、裏方の仕事を支えてくださったスタッフの皆さん、たくさんの人たちの力で、これだけ多くの人に映画を見ていただけたことを本当にうれしく思います。

 久しぶりに、力を合わせてイベントを開催する、という機会をもつことができました。一人ひとりの力はちいさいけれど、けっして非力ではない、ということを確認させていただきました。
 感謝、感謝です。
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戦争しない国をつくりたい若者たちの思いをしっかり受け止めたい

 作日の「戦争法案反対国会大包囲」、12万人もの人々が集まったとのことで、国会正面前の道路は1時間もたたないうちに車道に人々がなだれこみ、開放状態になりました。

 私は、12時45分からの自由の森学園の「song for peace有志合唱国会前」から参加。
 在校生主体の行動だけれど、OBや保護者、そして自由の森の合唱を愛する人たちがたくさん詰めかけ、娘に動画の撮影を頼まれていたのに、それもままならない状態。
 でも素直な若者たちのスピーチと合唱に心打たれました。

 あとで録画が公開されるとのことで、興味のある方は是非ご覧ください。
 なぜ、「歌」なのか。について実行委員の1人が「沖縄の辺野古の座り込みで、人生をかけて必死に基地建設反対の抗議をしているのに、それをせせら笑うように対峙する防衛局の人たちに衝撃を受け、しかし、抗議行動をしている人たちが島唄を歌い、踊っているときの生き生きした笑顔に、歌の力を感じたから。怒りをぶつけるだけでなく、歌声で思いを届けることもできるのでは」というような意味のスピーチをしていました。
 さらに、「本当は自分はだれも憎みたくない。むしろ愛するようになりたい」と、自由の森創立30周年のときに生まれた合唱「世界がいつか愛で満たされますように」を歌ってくれました。
 「民衆の唄」も「ケセラ」も良かったけれど、とてもレアな歌だけれど、やっぱり何度聴いても涙の出る「ヒロシマの有る国」でを唱ってくれたのはうれしく思いました。以下でその曲を歌う動画を見ることができます。
 https://www.youtube.com/watch?v=QCUDlaVQX3g&feature=youtu.be

 「ヒロシマの有る国で しなければならないことは ともる戦の火種を消すことだろう」とこの曲の結びにあるように、そして今日参加した多くの若者たちや若いお母さんたちのスピーチにあったように、「戦争のできる国ではなく、戦争をしないことで、世界中の人たちと平和に暮らせる国になること」を求める多くの国民の思いを,政治家はしっかり受け止めてほしいものです。
 「それは理想論」といなすのではなく。理想はいいことなのだから、それを実現する努力にエネルギーを注ぐのが常道だろうと、若者たちは突きつけているのです。
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2015年08月28日

自分のつくったもので被害を受けた人がいたら−、「原発メーカー訴訟」

春日部を離れ、前橋で10日間の孫守り兼夏休みを終えた本日は、「原発メーカー訴訟」の第1回の口頭弁論を傍聴しました。

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 裁判のあとの報告会にも、傍聴席に負けず劣らずの方の参加がありました。

 私たちの日常生活の感覚では、欠陥商品によって事故が起こった際は,製造したメーカーは、製造物責任法(PL法)や民法上の不法行為責任によって事故による被害の賠償責任を負うことになります。
 しかし、こと原発事故に関しては、原発メーカーは、原子力損害賠償法(以下「原賠法」)に規定された責任集中制度により、責任は原子力事業者(電力会社)のみが負い、その他はすべて免責とするとされています。
 しかし、原子炉の欠陥や製造上の不具合など、メーカーの過失によって事故が発生したとしても、メーカーが一切の責任を免れるとというのは納得のいかない話しです。これでは安全性よりも営利性を重視して原子炉が造られるということにもなりかねません。
 メーカーが責任を免れることのできる、責任集中制度の見直しが必要であること主張してこの訴訟に取り組むことになったのです。
 原子力損害賠償法を変えていくためには,上位法である憲法違反であるとの論点から追求する必要があります。そこで、原告団は責任集中制度が、原子力の恐怖から免れて生きる権利、すなわち「ノー・ニュークス権」を侵害しているという主張を柱に据えています。詳しくは、是非、原告団の公式サイトをご覧ください。
http://nonukesrights.holy.jp/
 傍聴して,今回被告となっている原発メーカー、東芝、日立、三菱、GE WECの代理人の方々の、メーカーが訴えられるのは納得がいかない、という趣旨の主張に、福島を中心とする多くの方々の暮らしを奪い、事故によって命を絶たれた人たちがいて、今なお健康被害に不安を抱きつつ暮らしている現実を直視しようとしない姿勢に鳥肌の立つ思いでした。
 このような制度のままで再稼働? これでいいのでしょうか。
 今後もできる限り、傍聴し続けていこうと思っています。
 昨日の山の手線の事故に続き、本日は私の利用する東武線スカイツリーラインの事故。車輌点検に伴う事故でなんで長時間もダイヤが乱れるのでしょう? 
 やっとのことで、裁判には滑り込みセーフでしたが、帰路はまた、システムの不具合によるダイヤの乱れ。このところ、なぜか鉄道のトラブルが続いていますね。東部線がストップすると、陸の孤島になりかねない地域に住む者としては、「しっかりしてよ〜」と言いたくなります。
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2015年08月15日

50年前に似た空気が漂う戦後70年の今

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 8月15日の終戦記念日、わが家の昼食は「すいとん」です。あの大戦で尊い命を奪われた方々の冥福を祈っていただきます。

 そのころまだ1歳だった末っ子の夫を含む、3人の幼い子どもを連れて、旧満州から引き揚げてきた夫の母は、「戦争中のすいとんは、こんな贅沢なものではなかった」とよく言っていました。その義母は、夫が今でいう離乳食の時期に当たっていたのに、食べるものに不自由してピーマンの蔓が手に入ればいいほうだった、と言い、そのせいで常に下痢気味だった夫のおむつを洗うのに困った、という話しを断片的にしてくれただけでした。
 今にして思うと、もっと話しを聞くべきだったと思います。

 そうしてひどい栄養不良のせいか、結核菌が体内に棲みついてしまった夫は、その後、結核性の関節炎で何度も股関節の手術をし、高校のときには結核も患いました。
 あの大戦で尊い命を奪われた方々とその身内の方々のことを思うと、この程度で済んだことは感謝しなければならないのでしょうが、戦後70年といっても、まだまだ戦争の影響は案外身近なところに残っているのです。

 そして、国会で「集団的自衛権」を容認する「安保法案」なるものが議論されている今、私は50年前、私が高校を卒業して大学に入る頃の空気に似ている、と感じています。
 大学に入ってからの数年は、バリケードの中だったといっても過言ではありません。

 最初に、「自衛隊適格者名簿」なるものの存在が明らかになり、「徴兵制」につながるのでは、と平和団体や学生が声をあげました。この問題はうやむやなまま、現在でもこの名簿の存在はときどき問題となります。ごく最近では、自衛隊の入隊案内が18歳の若者に送られてきた自治体があったようです。ずっと社会の底流にひそんでいるのでしょうか。

 また、昔の紀元節の日である2月11日を「建国記念日」とする祝日法の改正でも反対の声が上がりました。

 そして、私たちの大学で一番大きな問題となったのは、「目的化大学構想」というものでした。産学協同が提唱され、それに対して学問の独立性を主張する人々の反対の声が高まったのです。
 私の入学した学芸学部は、教員を養成するための教育学部に改編するとされ、教員になるために必要な教科だけを履修すればよいとされたのです。
 「教師となるためには幅広い人間教育が必要」とする学生側は全国的に連帯して反対運動を展開し、東の拠点が私の母校、そして西の拠点は大阪学芸大学となったのです。

 最近、「文化系大学不要論」が取り沙汰されていて、50年前の状況と重なって見えます。

 全国的には、学生運動=全学連運動と見られ、ベトナム戦争反対や国際反戦ディ、そして成田空港建設をめぐる成田闘争などが大きなうねりとなって広がったようですが、その陰にはこのような学生運動もありました。

 今、「安保法案」に反対する若者たちの姿に、50年前の自分が思い出されます。あのとき、ほんの少し、権力が揺らいだように見えました。「でも何も変わらなかったではないか」と言われるかも知れません。
 でもそうして自分が動いたことはその後の自分の生き方の底に潜んでいて、納得のできないものにはNOと声をあげなければ、と思うのです。

 今日の朝刊で瀬戸内寂聴さんが語っていらしたように、「立ちあがったという事実はとても強い」ということを信じたいと思います。50年前、これからの社会は良くなっていくんだろうと信じていたのに、今振り返ってみると、本当に良くなっているのか、と疑問を感じるとしたら、あの若いころに求めていたものを今一度見つめ直して、より良い社会のためにまだまだ動いていかなけれな、と思った終戦記念日です。

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2015年08月03日

歴史的な司法判断をかちとるための第1歩、これから本当の戦いー福島原発告訴

 本日は、地裁前で行われた福島原発告訴団の、起訴議決という英断をした検察審査会に感謝を伝える緊急行動に参加しました。

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 何といっても、強制起訴にこぎつけて安堵している、告訴団の中心を担っている皆さんに「ごくろうさま」、「よかったね」と挨拶をしたかったのです。

 東京第5検察審査会が起訴相当とした議決書については、Face bookで紹介しましたが、告訴団のサイトにも紹介されています。http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/
 なんといっても2008年の段階で第1原発には最大で15.7mの津波が押しよせる危険性があることを指摘されていたにも関わらず、コストの問題から安全対策をとらなかったことが、今回の苛酷事故の原因となっていること、つまり安全対策よりも経済性を優先させた責任は大きいと断じていることが、被害者だけでなく、多くの市民感情とつながっていて、「司法は民衆のためにある」という姿勢を示してくれていることをうれしく思います。

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 マイクを握っているのが、最近「映画監督の河合弘之です」と自己紹介する河合弁護士ですが、河合さんのお話はいつでもユーモアに満ちていて、一緒に運動している人たちすべてに勇気を与えてくれています。
 今日も、「福島の事故が何一つ解決していない中で再稼働を進めようとしている流れ、そのために事故のことを忘れさせようとしている空気に対して、この裁判が“忘れてはならない”ことを明るみに出してくれる意義は大きい」というような意味のことを話されました。そうですね。

 続いて海渡雄一弁護士が、「小沢一郎代議士の強制起訴は、実は検察側も起訴にしたいという思いがあっての検察審査会の決定であったけれど、今回は検察が起訴はしたくないと考えている中でも強制起訴で、大きな意味がある」と語りました。そしてその意味ある起訴に対して十分に渡り合っていくために、これまで以上の努力をしていくことを共に確認できたように思います。

 「強制起訴、ありがとう」「市民の正義をありがとう」……。検察審査会に向かって暑さを跳ねのけるほどの力強いシュプレヒコールで締めくくられた行動でした。

posted by ふくろう at 19:30| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月30日

ドキュメンタリー映画「疎開した40万冊の図書」の上映会を行います

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 あなたはご存知でしたか。戦時下日比谷図書館の本を守った人たちがいたことを。
 戦争末期の1944年から45年にかけて、日比谷図書館の蔵書の一部が、50km離れた奥多摩と埼玉県の志木市に疎開します。当時の中田館長は図書館の蔵書だけでなく、民間人が蒐集していた貴重な本も買い上げ疎開させました。リュックに詰めて背負い、あるいは大八車に乗せて運ぶ人手は図書館員だけでは到底たりず、当時の都立一中(現日比谷高校)生も動員されました。何回となく足を運んで疎開した図書が40万冊となった5月、日比谷図書館は焼夷弾によって全焼しました。
 自分の命を守るのが精一杯だった時代に、つらく苛酷な作業によって先人の文化や歴史を守ろうとした人たちの思いを、戦後70年の節目に当たる今年、多くの人たちと共有したいと、さまざまな市民活動の団体や個人が集まって「観る会」をつくり、上映の準備を進めています。
 できるだけ多くの方に観ていただきたいと思い、会場は春日部市八木崎にある中央公民館の講堂をお借りすることにしました。
 また、本を運んだ高校生たちと同じような若い世代にも観てほしいと、学生割引も設けております。
 関心のある方は是非、足をお運びください。

☆上映会
日 時:8月29日(土)1回目・14時~、12回目・19時~(いずれも会場は30分前)
ところ:春日部中央公民館講堂(東部アーバンパークライン八木崎駅下車徒歩1分)
主 催:「疎開した40万冊の図書」を観る会
協力券:大人1,000円、学生500円
取扱店:紅雲堂・後藤商店(八木崎駅前)・ハスミ(南桜井駅)・西武百貨店春日部店(5階ギフトサロン)、服部書店(武里)
連絡先:高橋(電話048-763-1517)、川島(携帯090-4955-4989)

 
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2015年07月19日

一人ひとりの命の重さをかみしめたい

 昨日は、第10回の「かすかべ平和フェスティバル」でした。

 午前中は、「生かされて79年」と題する仲田清一郎さんのお話がありました。

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 仲田さんは太平洋戦争の末期、沖縄から長崎に向かう途中、米軍の潜水艦が発射した魚雷によって沈没した集団疎開船・対馬丸の数少ない生存者のお一人です。当時8歳。
 淡々と話される仲田さんの言葉ですが、8歳の少年が真っ暗な海の中で、「母ちゃん!」、「先生!」泣き叫ぶ子どもたちの声を聞き、そしてその声が一人、またひとりと消えてしまう中で丸太につかまってただよっていた、その深い闇の中をどんな思いで過ごしたのだろうと、お話を聞きました。
 仲田さんの家は海運に関する事業をされていたようで、出航前に、千手観音にお詣りして無事を祈ってくださり、千手観音さんの手の平の上で生かされた、という思いがおありだったようです。
 それも含め「79年生かされてきた」という仲田さんのお話を、もっと聞きたいと思いました。
 
 今回の企画は急だったため、時間が足りなかったので、第2弾として、「対馬丸」に関する映像の視聴と共に再度仲田さんのお話を聞く会を設けたいとのことでした。

 午後は、市原悦子さんの朗読とお話の会でした。
 ユーモアにあふれ、声高ではない市原さんの、主に疎開された頃の子ども時代のお話、そのあとの童話の朗読は−。

 一つは野坂昭如さんの「戦争童話集」の中からの一編「凧になったお母さん」。もう一つは、あんまきみこさんの「ちいちゃんのかげおくり」
 二つとも童話です。フィクションといえばそうです。しかし、その中に凝縮された、「楽しいことも知らず、おいしいものをお腹いっぱい食べることもできず」奪われた幼い命。
 亡くなったかた何百万人というとほうもない人数の中にあった、一つひとつの命の重さに圧倒された思いの、今回の「平和フェスティバル」でした。

 昼休みの時間、ちょうど1時になったので、全国で、地元で「阿倍政治を許さない!」というカードを掲げてスタンディングしている仲間に思いをはせて、正風館前の道路で一人スタンディングをしました。
 通りかがりの方からうなずいての挨拶をいただいたり、握手していただいたり、「一緒にがんばろう」との激励をいただいたり。一人でも、一人から歩んで行かなければいけないと思いました。人間が人間でなくなる、戦争する国にしないために。
posted by ふくろう at 08:17| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月16日

心強い、若者たちの「自分たちの手で民主主義を取り戻す!」

 昨日は、皆から「戦争法案」と呼ばれている「安保法制」特別委員会の強行採決抗議集会に、昼の部から参加。「総がかり行動」の集会は18時半からなのですが、日中の行動は、参加できる人が限られているだろうからと思い、昼の部からの参加にしたものです。真夏日とされていましたが、幸いなことに、国会周辺は街路樹が多く、木陰に座っていると時折吹く風が心地よく、暑さをさほど感じずにすみます。
 仲間はまだ来ていないだろうと思ったところ、偶然、越谷の知人に会え、また、隣近所に座る見ず知らずの方とも話しがはずんで、昼の部の集会から座り込み、そして16時半からの夕方の集会と、時間が流れていきます。
 その間、帰る方もいたり、詰めかける人あり、徐々に参加者はふえていきます。強行採決のニュースが報道されると、これは黙っていられない、と駆け付ける方が多いという印象です。
 
 国会正門前は封鎖され、人っ子一人寄せ付けない警備ぶり。警察も今までよりも参加者が増えることをみこしてか、車道側に入念にバリケードを設置し始めました。

 夜の集会が始まる30分ほど前からは、続々と人が詰めかけ初め、すでに正門前の歩道は、新たに参加する人たちがすいているエリアに移動するのもスムーズにはいかなくなってきました。

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 集会が始まると、次々とスピーチする野党の党首に、周囲には「野党は一枚岩になって頑張れ」、「党派にこだわってる場合じゃない」とつっこむ人たちもいます。数を頼みにして強行採決する与党に対してだけでなく、多数の国民の思いが届かない国会に対するいらだちを感じます。もちろん、このような状況にしたのは有権者一人ひとりの選択、投票行動の結果であったことを、あらためてきちんと受け止めていかなければならないでしょう。
 「今日は終わりではない、今日がスタート」
 スピーチの中にもそんな呼びかけがありました。
 「民主主義が死んだ日」とする人もありましたが、私は若い人たちの「これから自分たちの手で民主主義を取り戻す」というに共感しました。

 国政選挙は私たちの手に届かないところにありそうな気がしますが、決して手の届かないままであってはならりません。次の国政選挙では有権者一人ひとりが当事者として関われるものにするためのうねりをつくっていかないと、日本は民主主義国家たりえないと思いながら、集会終了少し前に、霞ヶ関の駅の方向に移動していきました。

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 すでに参加者は2万人を超えていそうですが、霞ヶ関の国会前の信号でも、新たな参加者が続々と詰めかけています。国会議事堂前駅や永田町駅からもきっと、たくさんの人たちが詰めかけているのでしょう。
 国会前の歩道では、「車道を開放しろ」という声が次々に起こっていました。脱原発の第1回目の官邸前行動のように、バリケードを除いて車道に参加者が流れるようにしないと、ケガ人が出そう、と思っていたら、後半はそうなったようですね。
 10万人と言われる人々、そして、今日話した人たちのように、「来たくてもこれない人たちのためにも自分が」という人もたくさんいることを考えると、ここからなにかが始まる、と確信して7時半からの若者たち主宰の集会に心ひかれながら、駅に向かいました。




 
posted by ふくろう at 15:54| 埼玉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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